「春のめざめ」考察 補論

このエントリは「春のめざめ」に関するネタバレを含むのであらかじめ警告しておく。

このエントリの目的

すでに2つ考察を書いているがそこから漏れた雑多な事柄を記録しておくことである。

この作品は面白い

駄作だとはほんの少しも思っていない。これは見るべき所が多く、考えるべきところが多い、非常に面白い作品だと思う。もし自分が演劇やミュージカルを観る眼を養っていると自覚できるなら是非見て欲しい作品である。もちろん、そうじゃなくても見て欲しいことにはかわりがない。というのも、考察で指摘したように作品の構造上、そういう人達が必要だからである。

見どころ

歌詞や曲、ストーリーが良いなんてことはまったく思わない。曲は記憶に残りにくく、日本語歌詞はたいしたことはないし、ストーリーは「こんな話が衝撃的だったのなんていつの時代のことだい」的なものだ。
見るべきは舞台装置だ。
劇場に入ると緞帳はなく左右の席と真ん中に服の掛かった椅子一つ。演奏席。そして様々なものが作り付けられた壁。壁には風景画や人物画もあれば、大きな蝶の羽根(片方だけだ)、同じく蝶の標本、ハシゴと高い位置に置かれた椅子、白い丸い物や、大きく赤い丸いもの、男子の制服、等々がある。
アンサンブルは客に見せかけステージ席に座る。同様に出演していないキャストも、あたかも客の一人のようにしてロビーで見ることができる。彼らも舞台装置の一部だ。つまりはステージ席の客も舞台装置なのだ。
エヴァンゲリオン」の映画版で映画を観に来た客を撮影し映し出したことがあった。これは客を映画に取り込み、客もまた映画を構成する一部品に過ぎないことを意味していた。
宮本亜門版「三文オペラ」でもリアルタイムで客席を撮影し舞台上に投影して見せていた。観るモノは見られるモノでもあるということを示している。客席も芝居の一部として存在することを意味する。
ステージ席は舞台を見ている客席を自覚させるためのものであり、客席とステージ席は同等の観察者であるのだ。アンサンブルがコーラスと呼ばれていないのは、アンサンブルは客の代表であり、事態を目撃した象徴に他ならない。
芝居が始まると壁の上のオブジェに光が当てられる。そしてそのモノの意味を客は知ることができる。ストーリーの場面と中心人物がライトに照らされたオブジェで表現されているのだ。それぞれが意味深い。そしてステージ席の背後にもライトがあることに気づく。ステージ席の蛍光灯が光る場面がいつなのか見ておいて欲しい。
この作品が単純に思春期だけの話でないことはそれらの意味を考えることで気がつくはずだ。

観客の違い

ふと考えたのは、この作品、アメリカではどのように観客は見たのであろうかということ。たぶんに、自慰シーンなんかでは大笑いして野次を飛ばし拍手しながら見てたんじゃないのだろうか? 一幕のラストもなんらかの大きな動きをしていたんじゃないだろうか。アメリカでははやしたてる客とそれを黙って見ている客の二種類が居たんじゃないかと推測する。
対して日本ではみんな真剣に黙ってみている。これもまた滑稽な話だ。自慰シーンや強姦シーンを黙って見守っている構図なんてありえない。しかもそれが終わったあと客席は拍手するんだ。こんなに面白い場面はめったに見られない。
騙されたままの客は作品に必要なのだが騙されない客は居ても居なくても良いという興味深い構造にもなっている。
これもまたこの作品の見どころでもある。

メリヒオールはアナキストである

個人的にこの話が嫌いなのはアナキストを最大の悪者に仕立て上げていることである。
メリヒオールはアナキズムの分類で言うと大杉栄に近い個人主義的絶対自由主義者である。彼は教会から逃げ出し、学校権力の構造を見抜きそれに反抗する。性的にも自由であり、まるで自分はそれから解き放たれた者であるかのように行為する。にも関わらず、彼を支配するのは知性ではなく感情であり衝動である。考えることを途中で停止している人物だ。その判断停止により二人の友人を死に至らしめる。しかも反省しないし責任も取らない。まったく大杉栄と同じ性格だ。悲しむべきは大杉栄のように死を共にするような生涯の伴侶、伊藤野枝をみつけられないことだろうか。
四季の演出家浅利慶太アナキズムの対極に存在する政治思想を持つ人物である。彼がこの作品を上演することに許可をしたのはそういう背景もあってのことだと推測する。

墓場のシーン

メリヒオールが墓場で嘆くシーンで現われる亡霊の登場の仕方はレ・ミゼラブルのラストと同じように見える。これはわざとそうすることで観客を騙そうとしているのだ。日本ではレ・ミゼラブルのファンが多いからね。
ところがだ。墓場というのが重要な場所だ。「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」のラスト前の墓場のシーンを思い出そう。主人公のジャックは打ちひしがれたあげく、すぐさま開き直り元気を取り戻す。むしろこのシーンはそれに近い。作り手は騙そうとすると同時に種明かしもしようとしているという根拠の一つである。