「春のめざめ」考察 補論2

このエントリは「春のめざめ」に関するネタバレを含むのであらかじめ警告しておく。

本来期待される解釈

asahi.com から引用

(前略)
台本・歌詞のスティーブン・セイターは「時代や国、文化の違いを超えて若者の心の声に寄り添った作品。日本での上演は夢でした」と語る。音楽のダンカン・シークは「多くの国で上演されているが、8回ものカーテンコールは初めて」と笑顔を見せた。
(中略)
創作準備中の99年に起きたコロンバイン高の銃乱射事件が、2人の背を強く押した。セイターは「米国の若者は親や社会から疎外され、はけ口がない。彼らの痛んだ心に響くような舞台をつくりたかった」と振り返る。シークは「10代のエネルギーとロックのつながりは普遍的なもの。性への興味や友情の喜び、個室が欲しいといった様々な思いを曲の中でいかに表現するか気を配った」と言う。
(後略)

作り手すら「カーテンコール多すぎ」という感想はどーゆーことよ。ってのは、おいといて。
作者側の言葉には子供達へのメッセージ的な意味があるかのように見えるが、そんな意図なんてものはどうでもよくて、どう見えるかが問題なのだ。ごく単純にこの作品を解釈するならどういうことになるのか、ごくごく普通にこれをみて解釈するならどう考えられるのかを示したい。
コロンバインの事件というとドキュメンタリー映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」がある。アカデミー賞受賞作品だ。この中でマイケル・ムーア監督はこの事件の背景を解明し教えてくれている。国家が抑圧と強権の中、国民の恐怖と不安を意図時に煽っているからだと。
これは「春のめざめ」における大人と子供達に置き換えられる。大人達の強権と強制、物事を正しく教えない・真実を教えない態度、自由放任主義が子供達全員の悲劇を招いたのだという見方である。子供達へのメッセージではなく、大人達への批判だということだ。
これが先の作り手達の言葉からリードされる本来在るべき解釈だ。

悪辣な作り手達

この作品の騙しのテクニックをおさらいしてみよう。
第1弾は「あたかも思春期の過ちのようにみせかけている」こと。「春のめざめ」という題材を取り上げそれのストーリーに眼を奪おうとしていること。
第2弾は「子供へのメッセージを装う」こと。子供達に何があっても生きなさいよと呼びかけているように見せていること。
第3弾は「大人達へのメッセージを装う」こと。コロンバインの話を持ち出し、実は大人への批判だよと思わせようとすること。
そして隠していたことは「他国を蹂躙してきたアメリカを批判する」こと。それを気がつかせるために観客をステージに上げ共犯者にまで仕立てている。非常に悪辣な手法だと言える。
ここで四季の浅利慶太が関わることで、日本的意味が付与されてしまった。
「同じく他国を蹂躙してきた日本だが、それを反省し(た振りをさせて)明るい未来がまっているかのように錯覚させる」こと。
そう、ラストシーンは非常に曖昧なので、明暗どちらの解釈も可能なのだが、そう言うときは作り手の背景を考慮する必要がある。オリジナル演出なら国家批判になるし、浅利が関われば国家擁護になるのだ。これは作り手の意図や解釈する者の立場性などは考慮しないで演繹される結論である。


演劇は演出・脚本家と観客との思想戦争だと考えている。作り手の思惑に取り込まれてもそれをこちらの考えと思いで受け止め跳ね返しそれを露わにすることで戦うことだと思う。「春のめざめ」は観客に対して仕掛けられた戦争だ。それに負けないようにするための手段をこれまでの論で書いてきたつもりである。