「春のめざめ」感動に関する考察

このエントリは「春のめざめ」他、幾つかのミュージカル作品についてのネタバレを含むので、あらかじめ警告しておく。

「感動した」

観劇blogを読んでいて少々辟易するのは単に「感動しました」と書かれているもの。何の感想にもなっていやしない。
最近の観劇レビューの例で言えば「春のめざめ」などはそう言う言葉が多い。非常に不思議だ。彼らはあの作品の何に感動したのだろうか?
実年齢や見た目はどうあれ設定上は十代の男女が舞台上で白黒ショーをするわけだから衝撃的ではあるだろうよ。それは感動ではないよね。
じゃ、ラストの亡霊のシーンだろうか? その場面も所詮亡霊なんてものは主人公の思い込みでしかないんだから、個人の逡巡であり自殺への度胸が無かっただけのこと、自殺を踏みとどまって良かったねなんてのは感動という物とは離れたものだよね。「春のめざめ」には感動の図式など存在していないのだ。陰鬱で悲惨な結末しかそこには無い。感動したという人はそれを認めたくないんじゃないか?
ミス・サイゴン」も同様。キムの死に心打たれるわけでもない。彼女が死ぬことは大きな誤りなのだ。そのことに感動などしてしまっては自殺を肯定することになる。そこに感動するという人はそのことに気がついているのだろうか? キムの死はあまりに悲しい悲劇であって、悲しみにくれることによってカタルシスを得るような種類のもの。決して感動ではない。
感動というのは喜びによってカタルシスを得ることを指すのだ。
しかしながら「ミス・サイゴン」はその清廉な悲劇性により、見ている者を助け出すことはできるだろう。「フランダースの犬」のラストのように報われることのない清純なるモノの死を嘆くことでのカタルシスもまた観客の魂の救出にはなるからだ。百歩譲って、悲劇的なモノであっても感動と呼ばれても構わないと思う場合もある。しかし「春のめざめ」はそういうものでもありえない。
「春のめざめ」の主人公は自分の行為の結果を知った上で行動し、それを行為の意味を知らない娘に対して「信じて」などと騙して行なっている。これは現代的にも完全な強姦だ。
「主人公に感情移入して感動した」なんて人もいるみたいだが、それはまさに制作者の意図通り騙されていることになる。もしあなたがヒロインの親だと想像してご覧なさい。自分の娘を強姦し、そのせいで娘が死んでしまってだよ、その犯人は矯正所から脱走して、自分の娘の亡霊に助けられたなんて言うんだよ。そんな奴を許せるかい?
みんな、無責任に感動の意味を考えもせず使っているだけなんじゃないかと思う。
もし、「感動した」と言うならばどのような事に対して喜びを感じた・あるいは深い悲しみに嘆いたと書かなければいけない。「歌に感動した」「演技やダンスに感動した」なんてのも別だ。それは作品に感動したことにはならない。単に個人の技量に魅入ったということでしかない。
レ・ミゼラブル」は悲劇の連続だ。結末も主人公の死で終わる。しかしそれでも感動を覚えるのは、主人公は死に瀕してコゼットに会うことが出来、そして彼が神の祝福を受けていることに気づき魂が救われるからだ。
「ハロー・ドーリー」が感動できるのは、ラストで亡き夫のメッセージが届き、許されたことが判るからだ。
ドロウジー・シャペロン」では椅子の男氏がその作品の歌にどうして助けられたのかが解明され隠された歌の秘密が明かされる。これもまた救いの話だから感動するのだ。
だからもし「感動した」と言うのだったならば、是非、その仕組みを言葉に表わして表現して欲しい。その説明を読むことによって感動を共有することができると思うのだ。

ミュージカルは子供が観る物でもなければ感動する物でもない

『ミュージカルは子供のためのものではない』のだが、『ミュージカルは子供のためのものだ』と勘違いをしている人も多く「イーストウィックの魔女たち」や「Hair」へ子供同伴で見に行ったりする人がいる。当たり前のことだが「子供向け」と冠していない限り演劇なんてモノは大人が見るモノに決まっているのだ。子供向けなのは劇団飛行船やピーターパン、サンリオや四季の子供ミュージカルくらいのものだ。
同じく勘違いされていることとして『ミュージカルは感動するものである』ということがありそうだ。これもまた完全な間違いである。
Xanadu」はジーン・ケリーが老体鞭打ってローラースケートで踊るところに驚きを感じざるを得ないが作品自体に感動の要素など無い。お馬鹿な主人公がリゾート海岸でブロンドに恋するというだけの話。
雨に唄えば」も全編コメディであってラストのハッピーエンドもカタルシスを得るようなものとはほど遠いものだ。
他の映画や演劇と同じで単なる娯楽であり恋愛モノであり戦争物であり悲劇であり喜劇であるのがミュージカルだ。
ただ幾つかの感動作というものがあることは確かだが。唐辛子が辛いからといって調味料がすべて辛いわけじゃない。
「〜を見て感動した」という人は本当にそう思っているのだろうか?
「××の団体がやってる演目だから感動するに決まっている」とか「ミュージカルは感動するものだ」とか「みんなが感動したと言っているのだから自分も感動したに違いない」とかそういうニセモノの感動なのではないのか? あるいは「絵がキレイ」とか「セリフが良い」とか「ダンスが素敵」とか別のモノですり替えているだけじゃないのか?

メインストーリーだけが作品の意味ではない

前に「ドロウジー・シャペロン」について考察したことがある。日本公演では不幸なことに正当な評価をしている人がいなかったように見える。有名人総出演のエンターテインメント、そういう位置づけでしか語られない。「誰某が一所懸命やっている」とか「誰某の歌・ダンスが上手い・下手だ」とかそんな形而下な面でしか評価されない。だからカーテンコール後の募金願いについて何故彼らがそういう行動に出たのか理解出来なくて批判をするのである。モノを見ているようで、見たいモノしか見えていないのだ。自分の頭で考えていない。作品の帰結としてガザの子供達への募金願いが出ているのに、観客は作品とは別のモノだと思い込んでいる。宮本亜門はあんなにも判りやすく観客に説明しているにも関わらずそれが判らないというのは、根本的に観客はセンスがないのだろうと思う。
「春のめざめ」に立ち戻る。既に示したようにこの作品は感動作なのではない。ただし、意図的にそう勘違いさせられるように作られている。形式的には主人公の落ち込みとそこからの再生を見せているからだ。また一幕ラストのように強姦シーンをあたかもそれが崇高な行為の如く、全員がソレを見守るという見せ方をしている。
端的に言おう。作り手は見せかけの感動の形式を提示し観客を騙そうとしている。そして騙されっぱなしの観客をあざ笑っている。
当然、そのニセモノに気がつく観客もいる。作り手は騙そうとしているだけではなく「気がつけ」と言わんばかりの手がかりも多量に提示しているのだ。だから(普通は)気がつく。そして気がついた観客を怒らせようとしている。
一幕ラストが単なる強姦シーンであることが判れば、その忌まわしい犯罪行為を誰も止められず見ているしかないという場に観客を追いやったことに観客は怒るだろう。そのためだけにステージ上に客席を設け、観客もそれを見ていた共犯者にしているのだ。ステージ上の客席と、通常の客席に違いがないことを判らせるために、ステージ上で行なわれる客いじりもこの作品ではやっていない。
この作品主題がここで明らかになる。犯罪行為を目撃してそれを見ているしかなかった観客と最後に開き直る犯罪者、そして彼に拍手してしまう観客達という構図だ。観客は当然私たちだが、主役が何を意味するのかはもう歴然だろう。そういう作品なのだ。この作品には感動などはない。犯罪の告発なのだ。

感動の形式の一つ「赦し」について

ここで「ゆるし」について考察してみる。「ゆるし」とは救いの手段でもあり感動をもたらす心の思いでもあるからだ。
「ゆるす」には幾つかの漢字が当てられる。「許す」「赦す」「聴す」。字義的解釈をしてみる。
「聴す」は「聞き入れる」ことだ。相手の言い分を聞いて理解すること。自分の思いとは別のものであっても聴くことだ。それを「聴す」という。
「許す」は「上下に幅を持たせる」ことだ。杓子定規な枠ではなく、或る程度の余裕を持って相手を受け入れることだ。それを「許す」という。
「赦す」は「罪をとがめない」ことだ。罪の赦しこそが感動の側にあるものである。よって、以降は「赦し」と表記していく。
既に述べたように「レ・ミゼラブル」は罪の赦しに感動の源泉がある。社会正義を追求するジャベールを対照者として、ジャンバルジャンが自らの罪をどう贖罪していくかを物語る。ジャンは自らを罪人だと思い込んでいる。彼は盗みを働き、刑務所から脱走し、暴力もふるう人物だ。その彼でも回心し神を信じ贖罪としてコゼットを助ける。しかしそれでも彼は罪人のままだ。コゼットに祝福され帰天するときに初めて赦しが起きる。罪を犯した者は反省するだけでは赦されないのである。社会的刑罰を受けただけでは赦されないのである。その後の人生で贖ってこそ赦されるのだ。赦しには過程が必要なのである。
ちなみにカトリックでは自分の命や子供を助けるためならばパンを盗んでも罪ではないのである。命を全うせよというのが至上命令だからだ。ジャベールが自殺しジャンバルジャンが天命を全うするところで社会的な善悪と宗教的な善悪が入れ替わっている構造になっている。
「ウエストサイドストーリー」は主要な登場人物が殺害されるという悲惨な結末を迎える。にも関わらず感動を覚える。一人生き残ったマリアは恋人を死に至らしめた拳銃を持ち殺した者に銃口を向ける。そして呪詛を吐く。しかし撃ちはしない、自分も死にはしない。その呪詛に打ち負かされた若者達は対立することをやめ共に手を取る。聖母の名を持つヒロインは聖母の取った行動と同じく愛する者の死を嘆き、そして赦すのだ。赦された者達は互いをも赦しあう。赦しとは人と人との関係性である。関係性のない所に赦しは無い。

「春のめざめ」には「赦し」は存在しない

さて「春のめざめ」に戻ろう。直接的なのか間接的なのか単なる事故なのかはともかくとして、二人を死に追いやった原因は主人公にある。この主人公は赦されているのだろうか?
ヒロインの墓場の上に立っていることに気がつき嘆く主人公がいる。そしてナイフで自分の命を絶とうとする。しかしそこへ現われる二人の亡霊。主人公は自殺を断念し生きようとする。実のところ主人公は単に反省をしただけのことなのだ。なんら贖罪をしていないのだ。更には自殺を押しとどめたのが亡霊であることに留意すべきだ。これは生きた者ではない。赦しとは人との関係性だ。誰も主人公を赦してなどいないのだ。仮にここに現われたのが亡霊ではなく、生きている誰かだったならば成立しえただろうが、そういう場面をこの作品は見せていない。主人公は赦されてなどおらず、つまり魂の救済という意味での感動の形式は成立していない。そこには居ないはずのコーラス達が何を歌おうともそれは誰か生きた人達が歌っているのではない。彼の心の中だけに存在するものなのだ。
もし観客が赦しを見たと思っているならば、それは作り手達に見事に騙されていることになる。

感動の形式の一つ「再生」について

「再生」もまた重要な感動の形式の一つである。多くの特撮ヒーロー・ヒロインもので演じられるラスト、死んだはずのヒーローが登場し大逆転が典型だ。ミュージカルでは「スカーレットピンパーネル」のような活劇物にもある。
「GodSpell」はイエス・キリストを題材とした作品。同じネタの「ジーザスクライストスーパースター」と根本的に違うのは前者には再生が語られるが後者には再生が無いということ。したがって観客は「GodSpell」に感動するが、後者には感慨のようなものしか残らない。後者がより皮肉なのは自殺したユダの方が舞台で再登場し歌うことだ。

「春のめざめ」には「再生」も存在しない

「春のめざめ」では再生も見せかけのニセモノとして見せている。主人公の自殺の逡巡だ。一見どん底に落ちているように見えるかもしれないが、自殺もしていないし、その前とその後では彼は何も変わってもいない。「再生」という視点でも感動の形式は成立しない。作り手達は感動の形式があるかのように見せかけながらも、そんなものはどこにもないのだということを観客に知らせている。この作品は観客を騙すように作られているが、誠実なまでに真実をも見せている。問題はそれを見ることが出来るかどうかだ。見たいものしか見ないならば見えないのだ。

「春のめざめ」は名作である

『感動が無ければ名作ではない』わけではない。
五右衛門ロック」には主要キャストが見栄を切るシーンがある。この時不思議と感激する。それまでの鬱屈したものが取り払われ爽快さに満ちあふれるからである。ストーリーとして感動するようなものではないが非常に楽しく面白い作品であり名作である。
宮本亜門版「スウィニートッド」も名作である。若いカップルと気の触れた少年しか生き残らない悲惨な結末であり、殺伐な物しか心に残らないが、芸術的センスも高く、現代的意味をも付加しており、考察するべき点の多い作品だった。
「春のめざめ」もまた名作であると考える。題材に思春期の性の目覚めを使っている。しかし実のところそんな事柄は些末な問題なのだ。よく考えてみよう、現代の少年少女達の性に対する知識とこの話のものと。「性教育は正しく教えなきゃいけないよね」などという陳腐で現実認識の劣った感想など現代に於いては何の根拠もないものだ。今の思春期の子供達に性知識が無いと思っているならそのことが無知ではないか。
この作品で提起されている、セックス、SM、自慰、暴行、同性愛などは、常に既に知らされている物であって新しい物ではない。ただそれを実際にステージの上で行なったという点で衝撃的ではあろうがそれだけの話だ。そして人によってはショッキングかもしれないこの演技も、作り手の観客を騙そうとする手法である。いかにも衝撃であるようにみせかけ、そちらに気が回ってしまうように作っているのである。そうすることで騙されたままの観客を作り出そうとしているのだ。
かたや、原作を知るものや、舞台を忠実に観るものに対してはその構造を露わにし、騙していることを教えようともしている。このやり方が非常に上手く、名作という根拠と考えるのである。

四季版「春のめざめ」は失敗作である

ただし、今回の公演に関しては私は別のレッテルも付与する。名作だが失敗作だと。
以下は非常に個人的な主観の問題もあるのでここを読む人とは判断が異なるかも知れない。それはそれとしてあらかじめ認めておく。
総ては劇団四季がこの公演をしてしまったことに起因することだが、3点の失敗があると考える。
1つはキャストの問題。まったく思春期の少年少女に見えない。特に主演女優は実年齢はともかくとして見た目が可愛くなく且つ若く見えない。四季以外の公演ならより適切なキャストを見つけ出し配することが出来ただろうが、四季では内部から見つける以外無かったためこうなってしまう。
また、作品の楽曲の持つ弾ける爆発力のようなものも結果、表現できていない。
2つめは四季特有の喋り方である。これが前衛演劇ならそれも良かろう。所詮、母音法という喋り方は日本語ではなく、というのも日本語は母音を弱めたり発音しないこともある言葉だからだが、これが俳優達が喋るたびに違和感をもたらす。このことにより芝居自体を破壊する。
3つめは四季が上演し、極右演出家の浅利が関わることで、作品の意味がねじ曲げられたことにある。浅利は「ライオンキング」を『王は血筋である』という天皇制絶対主義にしてしまった人間だし、戦争がらみの三部作では戦争遂行者を肯定した人物である。「春のめざめ」はあきらかに独善的アメリカとそれを容認した人々の告発という内容であったのに関わらず、浅利が関わることでそれを日本に置き換え戦後日本の開き直りを容認するものにしてしまったのだ。


つくづく、この公演が四季ではなく他の人々によって上演されていたらと心から残念に思う。