四季版「春のめざめ」考察

ネタバレを含むので見てない人は読まないように。あらかじめ警告。


一幕のラストでメリヒオール*1がヴェントラ*2と性交する。その様子を彼らの友達のコーラスが見守り、そしてステージ上の客も見守るように見せている。ステージ上の客がそのように見ているというのは、つまりはステージの外の客席もそうだということを示す。
このシーンを皆はどう考えてみているのだろうか? この場面に憤慨していないというならばこういうことかもしれない。「若さ故の過ちとは言え、ヴェントラも彼のことを好きなのだし結ばれて良かった」 もし本気でそう思っているなら大きな勘違いだ。
普通は「とんでもない間違いをしでかす二人を止めることが出来ない」ことにいらだつものだと思う。
この主役二人の説明をしておこう。ヴェントラは母親に「どうやったら子供が生まれるのか」真剣に尋ねている。彼女はどうやったら子供が出来るのか知らない娘なのだ。子供が出来たことを知らされたときに初めてその行為の目的を知る。対してメリヒオールは親友のモーリッツ*3に図入りのマニュアルを書くくらい知識として持っていた。彼は自分の行為の結果を知った上で行動している。
つまりだ、無知な女の子をそれと知らせずに性の対象としたわけだ。完全な強姦だ。メリヒオールはレイプをした男なのである。
結局ヴェントラは堕胎失敗により死ぬ。モーリッツもメリヒオールの影響で自殺に至る。二人とも彼のせいで死ぬわけだ。
ところが矯正所から抜け出しヴェントラの死を知ったメリヒオールは自殺しようと思うも、二人の亡霊に助けられ生きることを選択する。
かくしてレイプ魔は生き残るという凄惨な話だ。この亡霊って都合良すぎるよね。


何故このような作品がまかり通るのか。たぶん、客の問題だろうと思う。
メリヒオールは自由を求める若者である。旧態依然の学校や社会に対し反感を抱きそこから自由であろうとする。また、性に関しても自由を求める少年のように見える。彼は、団塊の世代、米国の怒れる若者の世代の代表なのだ。彼らもその時代の文化を嫌悪し破壊し自由を求めようとした。また性的にももっとも奔放な世代だ。メリヒオールは彼らそのものなのだ。メリヒオールを許すことは自分達を許すことなのだ。この作品は彼ら世代の免罪符なのだ。
メリヒオールは結局何の創造もせずにステージを終えてしまう。過去の総てを打ち壊し、新しい物を何も想像できなかった団塊の世代そのままに。


そしてメリヒオールはアメリカ自身でもある。自分勝手な自由の理屈で他者を強姦し、他者を自滅に追いやり、自分だけはのうのうと生き長らえる。アメリカ自身の開き直り作品なのだ。だからこそアメリカでは評価されたのだと思う。


さらにこの作品を四季が演じ、浅利が関わっているという点でもう一つの意味が発生する。メリヒオールは日本なのだ。先の戦争で日本は他国を蹂躙し滅亡させたあげく、戦争には負けたものの結局は生き残りのうのうと暮らしている。それを正当化する話なのだ。


返す返すもこの作品が四季ではなく他のプロモーターによって上演されていたならばと残念でならない。これが宮本亜門ならどうなっていたろうか、蜷川ならどうなっていたろうか、東宝なら、ジャニーズなら、と空想だけが広がる。

*1:Melchior 舞台ではメルヒオールと発音

*2:Wendla 舞台ではベンドラと発音

*3:Moritz 舞台ではモリッツと発音