ミュージカルは誰の為のものか

ミュージカルは子供の為のモノだと思いこんでいる人達が居る。無知も極まれり、子供を性描写がてんこ盛りの「イーストウィックの魔女たち」に連れて行く親もいる。「キャンディード」を見ている君の子供に小屋に写る影を通してパケットとパングロス博士が何をやっていたのか、それを男女の結合シーンだと説明できるのか? あのキノコのようなものが生える病気は梅毒なのだが、それがどのようにして感染したのか説明できるのか?
ホリプロ版「ピーターパン」はもともと原作自体が子供向けの戯曲である。ネバーランドに来たウェンディが子供達を連れて帰ろうとするその夜、海賊の襲撃に遭い全員海賊船に連れて行かれてしまう。ピーターパンはそれに気が付かずウェンディが彼の為に用意してくれた薬を飲もうとする。しかしその薬には海賊の船長が毒をいれていたのだった。妖精のティンカーベルはピーターパンの身代わりに毒を飲んでしまう。今にも死にそうな時に会場の子供達に向かって言う。「妖精を信じているなら拍手をしてあげて」 世界の子供達が妖精を信じることで妖精は生き長らえることができるのだ。子供が会場にいないことには話が成立しない。
劇団四季の「王様の耳はロバの耳」も子供の為のミュージカルだ。あらかじめ会場の子供達に主題歌が教えられる。最後の戦いの時に会場一体となってそれを歌うのだ。そのことにより悪者は敗北し改心する。子供達は会場の一体感を持ち気分の高揚を得るだろう。
1960年代にNHK連続人形劇として「ひょっこりひょうたん島」が放映された。リメイクも近年行なわれている。この作品は完全なミュージカルで、歌の間にも場面が変わりストーリーが進んでいくし、ショー要素のある曲も存在する。これは子供の為のモノだったか? 表向きは子供の為とされていたのかもしれないが、決してそれだけのものではないことはすでに指摘されている。クレイジーキャッツの無責任一代男にも匹敵する「未来を信ずる歌」『今日がダメなら明日にしまチョ』と歌うこの曲は最後には『どこまで行っても明日がある』と脳天気さを披露する。本当の鬱病患者なら今日と同じ明日が続くことが耐えられないから自殺するわけだが、それほど鬱病度が進んでいなかったその時代、この歌が元気を与えたのは子供達にではなくむしろ大人達に対してだった。「勉強なさい」はどうだ。子供達による『勉強なさい、大人は子供に命令するよ』という告発に対し大人はちゃんと答えられるのか。トラヒゲすらも『泣けっちゃうな〜』と歌うサンデー先生による回答『人間になる為に勉強なさい』と匹敵するくらいの答を大人達は自分の子供に告げることが出来るのか? 大衆芸能や宗教儀式により成立したという過程を無視し、人形劇が子供のものと思いこんでいる無知な人達も居るわけだが、自分の見るものを自分できちんと判断する能力自体が欠けているのだろうか。
ペギー葉山は「サウンドオブミュージック」の一曲を「ドレミの歌」として日本に紹介した。見習い修道女が『ファイト』なんて言葉を要求するものかという個人的な疑問はあれども、ともかく翻訳は功名心にかられたペギー葉山の拙劣なものであり、宮本亜門版でようやく歌詞が生き返ったものとなった。ところがこれを『子供には早口で歌いにくい』などと批判する者がいる。ミュージカルは子供のものだという幻想にかられた戯言であり、そもそも子供をバカにしている。原文は英語でもっと早口だ。それでもちゃんと彼らは歌っている。子供が歌えないというのは理由にはならないし、一義的には聞く為の曲なのだ。客が歌うことが目的なのではない。
ミュージカルはテレビ番組や映画と同じで、それを作った人達がターゲットを決めているのだ。ミュージカルは断じて子供の為のものではない。『同士よ来たれ』や『オーカルカッタ』のように大人だけ(しかも少しだけモラルが自由な人達だけ)が楽しむものだってあるのだ。

4/7/28第2版