サウンド・オブ・ミュージック

他の人の書いた劇評を読んでみると、自分は人と見ているモノが違うのかも知れないと思うことがある。作り手達はこんなにもあからさまに伝えようとしているにもかかわらず、どうしてそれが伝わらないのだろう、そういうことを何度も思う。
ドロウジー・シャペロン」がそうだった。あの作品はミュージカルが何度も外的要因によって止められることで、911の時のブロードウェイショックを暗示し、そして世界で起きている戦争の影響を提示してくれているのだ。そう、作品のどこにもそんなことは描かれては居ないのにそういう意味であることを示してくれた。少なくとも演出家の宮本亜門はそのつもりで作っていたはずだと信じている。そうでなければカーテンコールの時にガザの子供達への募金を呼びかけたりはしない。しかし、その関連性について述べた劇評は無い。何故だ。みんなは見るべきモノが見えていないんじゃないか? そんなにも露わにされているのにどうしてそれを見ないのだ?
四季版「サウンド・オブ・ミュージック」に対する劇評も疑問に感じることの一つだ。
多くの一般観劇者の感想はありきたりのものだ。「子供達が良い」「マリア役が良い」「大佐役が(以下略)」
そして一様に「感動した」という。
感動? あなたたちはいったい何に感動したのだろうか? 自分が感じたという感動について、それはどこから生まれてきたモノなのか、なにがそうさせたのか考えたことがあるんだろうか?
私は強く疑念を持つ。「この作品は感動する作品だと言われているから自分が感動したと錯覚しただけ」じゃないんだろうか?
見沢知廉がこの映画を見たとき、感動などしなかったという。ブルジョアが逃げ出しただけの話だと。
私も初見は映画だった。そして感動した場面が一つある。ラストシーンではない。主題歌を歌う子供達を見て、大佐が歌い始めるシーンだ。大佐の心がほどけて子供達と一緒になるところが救われたと感じたからだ。
今回見た四季版「サウンド・オブ・ミュージック」には政治的意図が多く含まれていることに気がつく。
トラップ大佐はナチのもとで働くのは嫌だが、再度潜水艦に乗って栄誉を受けたい、つまり戦争をしたいと言っている。こんな言葉は映画版には無かったよね、また、東宝版にも無かったよね?
当たり前の話なのだけれども、エルザはナチスドイツを象徴し、大佐はオーストリアを象徴している。そしてマックスはその両者のもとにいるドイツ語圏の人々を象徴している。四季版はこの二人の対立を強調することでドイツとオーストリアの対立を強調しているのだ。マックスはトラップ一家を逃がしたことでゲシュタポに逮捕されていたよね、このことの意味をどう考えるだろうか?


四季版の大佐は精神的に弱い存在として描かれている。自分自身の思いを喋りすぎるからだ。亡命を決意するとき逡巡する人物だ。
「何故ナチに荷担して家族や財産を守ろうとしないのか? 亡命などせずにレジスタンスをするという選択肢は無いのか?」そう観客に考えさせる人間なのだ。
これこそが演出家の悪辣なやりかただ。
演出家はナチを肯定しているのではないか? 戦争を賛美しているのではないか? 祖国から逃げ出すことを恥知らずなことだと考えているのではないか? 逃亡に手助けした良心の人は投獄されてしまうのだと脅しているのではないか?
たぶん、この疑問への回答は全部肯定だろう。


四季版「サウンド・オブ・ミュージック」は演出を理由として駄作と断定する。