「ロザリー」考察

web の blog や mixi の日記に疑問が提示されていた。
「ロザリーが何を持ってアントワネットへの憎悪を捨てたのか?」
「最後のセリフに『神さまのお導きのままに』(記憶によるものなので曖昧)という言葉があったがここで神が出て来る理由がないのではないか?」
これに私はこう答えた。
「故郷の神父の手紙にあった『苦しみは衣服である』(記憶によるものなので曖昧)の言葉を、演劇冒頭でマリーがそのまま発言したからでしょう。この人も同じ苦しみをまとっていたんだと気がついたんだと思います。」
レ・ミゼラブルのジャベールは川に身を投げた。時代背景から考えて、当然、彼もカトリックだっただろう。だとすれば彼は大罪を犯したことになる。法律上の罪ではなく精神的な罪だ。ジャベールが自殺するということはつまり、彼は生きながらにして魂が地獄に落ちているため生きようが自殺しようがかわりがないということか、あるいは、神を信じることをやめたということになる。
ロザリーもまた川に身を投じる。彼女はこの時点でカトリック的神と決別したはずなのだ。そこから人本位の視点、革命へと方向が変わり、最後にまた神の視点へと戻っていく。作者の意図はどうあれ、見た目上は宗教的回帰の話である。作り手の意図はどうあれ、ルルドの奇跡がカトリック批判のテーマにみえてしまうという立場の対極の位置にあるがごとく、ロザリーの生き方がカトリックの肯定に見えてしまう。見た目上のテーマ「運命」など、実はまったく信じていやしないのじゃないか? と。


初演にはいなかったジョーカー(パンフレットの記述による)役をミュージカル座の名ダンサー梅沢さんと永浜さんが演じていた。珍しく踊りまくってくれるのでファンには嬉しい役柄だった。仮面を付けたジョーカーはマリーの運命の擬人化だろうか。フェルゼンを操り、逃亡のシーンでマリーにキスをし、コインの肖像を発見させる。
マリーもロザリーもその境遇にあればそのように生きるしかなかったという運命を見せながらも、それでいて彼らはちゃんと自分の人生を選択していたように見える。マリーは自分にとって正しい王妃になろうとしていたし、ロザリーについて言えば身を投げた後は全部の場面で自分の生き方を選択していた。「運命」という言葉は自分の不幸な境遇を正当化するための口実である。
この作品のテーマは「運命」なのではなく「自由」なのではないだろうか?
ラストシーンの二人が感動的なのは定められた運命があろうともそれに立ち向かい自分達の自由な生を全うしようとする決意が見られるからなのだと思う。