赤ひげ

このエントリーは敬称略とする。
この公演を見る前に、映画版・テレビドラマ(NHK)版は大昔に見ていてすでに忘れているが、小説版は読んでいる。このエントリーを書く前に映画を見直した。以下ミュージカル座公演をハマナカ版と呼ぶことにする。他の版の呼び方はすでに示したとおり。
ハマナカ版は小説版だけを下敷きにしているのではなく映画版の設定も取り入れていることを知った。養生所井戸での呼び戻しの場面、おとよを取り返しにきた女を殴る場面、婚礼の場に赤ひげが居ること。これらは小説版ではそれぞれ長屋の場面、殴るシーンは無し、婚礼の場に赤ひげは居ないという違いがある。
また映画版にはなく小説版から持ってきていながら異なる場面としては、鶯の話、おくめ殺しがある。小説版では鶯の男は治癒しないし、おくめ殺しは赤ひげの入れ知恵ではなく長屋の人々の知恵によって解決される。
一幕に関しては主演のセリフを噛む・タイミングミス・セリフ忘れに観劇初見であっても気がついてしまうと言うひどさくらいで脚本に対してはそれほど疑問を持つ所は無かった。ところがだ、二幕に入って、そして終わりに近づけば近づくほど脚本・演出の破綻を感じざるを得ない。
映画版ではおとよと長次の関係性を描くが故に、おとよの居る養生所で井戸に叫ぶシーンの必然性が出て来る。当然、おとよが走り出し井戸に向かう意味もはっきり判る。ハマナカ版ではおとよと長次の関係はほぼ無いのに彼女は駆け出す。そもそも養生所で井戸に向かって叫ぶという必然性が無い。長屋でならば長次の事を知るおかみさんたちが叫ぶ理屈も成り立つ。映画版では賄い婦達と長次との関係性も描かれているから彼女らが叫ぶ気持ちもわかる。映画版での感動シーンをコピーしただけで思想は持ってきていないのではないか? 井戸に呼びかけることで長次が息を吹き返すように見せる点も良くない。
同様のことはおとよを取り返しに来た女を殴るシチュエーションにもある。そもそも小説版には無い。というのもどんな人物であろうとも同じ人間として扱う赤ひげが、その女にだけは「臭い・出て行け」と言う。赤ひげに差別の言葉を吐かせているのだ。これだけで充分だったのだ。映画版では賄い婦達に大根で殴りつけさせている。賄い婦達は女を傷つける気が無いのだ。ただ一心におとよを守りたいという一念がそこに表われている。観客は彼女たちがいる限りおとよは安全だと確信できる。映画版では赤ひげが他の医師達に女に触るなとも言っている、汚れてしまうからだ。さてハマナカ版だが差配の妻に「これは誰々のぶん」と言わせ殴らせている。ここでの殴る行為は痛めつけるためであり、恨みをこめたものであり、意趣返しだ。殴った所でどうにもならないはずだ。嫌な奴を殴ることで溜飲が下がることを期待しているのだろうか? むしろ差配の妻を貶めるだけじゃないのか? このシーンはこれまでのミュージカル座の作品らしくない場面だと思う。「明治座の公演みたい」という感想を持ったが、この場面に象徴されることだ。
他にも、おくめ殺しの解決を赤ひげの手柄にしてしまうのはやり過ぎだとか、婚礼シーンに赤ひげが居ることの必然性が描かれておらず彼がどこにいるのかもはっきり判らない、などがある。
端的に言って二幕の脚本は破綻している。ぶった切られたものを繋いでいるだけという印象だ。もし再演するなら二幕後半の変更を願いたい。
キャストは主演は別として非常に良い。セリフを噛んで観客を現実に行き戻すとか、セリフを前後させてしまいお客を不安にさせるとか、それが頻繁にあるようでは過去のキャリアなど関係なく良い評価はできない。が、座員やいつもの客演メンバー、中心人物達は申し分のない演技だったと思う。特筆するなら相沢の悪役っぷりは格好良いし主演を引き立たせる役目をしっかり果たしていた。大塚の可憐さも良かった。
ということで今回の公演については「非常に不満」に思う。