自由にする力

 絶絵子(たえこ)さんは大会社のプログラマでした。関東とはいえ田舎の大工場の建物でしたから百メートルもの筒抜けのフロアに席がありました。横幅も五十メートルはあったでしょうか、フロアの中に何本もの規則正しい鉄筋の柱が立ち並んでいる、そういうところでした。
 絶絵子さんが関わっていたプロジェクトもまたとても大きなもので、何十ものサブプロジェクトがあり、さらにその下に幾つかのチームがぶら下がっているというものでした。絶絵子さんはそのサブプロジェクトのソフトウェア担当のサブリーダーだったのです。
 自分ではプログラムを組まないのですが、チームメンバーから上がってくる障害報告に対応しなければならず、もうほとんど総てのプログラムが彼女の頭の中に入っていました。でも頭に入っていると言っても判らないことは判らないのです。どうしてそれがそうなってしまうのか、理屈では説明がつかないこともあるのです。
 人見知りをする絶絵子さんはこんな大きなフロアで仕事をするのも辛かったのですが、絶え間なく報告される障害に対しても疲れを感じていました。それでもプロジェクトのメンバーが絶絵子さんの所にやってきます。普通はプロジェクト用の掲示板やメールを使って報告してくるのですが、絶絵子さんの仕事のスタックが溜まって反応が遅くなると絶絵子さんの所へ直にやってきたりする人がいるのです。
 矢七君はその筆頭です。みんなからは風車って呼ばれています。ふつー、あだ名の方が呼びやすい名前になるものですが、頭のてっぺんがまさに風車だったのでしょうがないのです。
「先輩、このデータを流すと僕のところでアベンドしちゃいました。どうしてなんでしょう」
風車は絶絵子さんの三年後輩なので先輩って呼ぶのです。絶絵子さんは『あんたが作ったプログラムでしょ。あんたが真っ先に判んなくてどうすんのよ』と言いたいところでしたが、性根は優しく素直な女の子だったので、やっぱり丁寧に応対してしまうのでした。でもそろそろ人のデバッグをするのはうんざりでした。『もう、こんなバグから自由になりたい』
 絶絵子さんは自分では気が付いていなかったのですが、実は魔法使いだったのです。考える前に指がピロリロリーと動いていました。キーボードはそれに応えて風車の汚いプログラムをチョコチョコチョコと書き換えていきました。そしてバグは自由になったのです。
 それからは絶絵子さんは目の前の障害やバグをどんどん解き放っていくようになりました。回りの人達は絶絵子さんの力に気が付き彼女の助けを得ようと前よりも一層集まってくるようになったのです。絶絵子さんは困りました。絶絵子さんはバグを自由にするよりも新しいものを作り出すことの方が好きだったからです。
 大会社のお偉いさんは絶絵子さんをプロジェクトからはずし、害虫駆除部なる部署を新設してそれにあたるよう命令しました。クリエイターでいたかった絶絵子さんはすっかり仕事への熱望をなくしてしまい、みんなから強く引き留められましたがその大会社をやめてしまいました。
 絶絵子さんはフリーの魔法使いとして独り立ちしました。しかし好きなことと才能のあることとは一致しないこともあるものです。絶絵子さんに要請されるジョブはほとんどが大変なプロジェクトのバグフリーでした。まあ、それなりに高収入になりましたし自由な時間も多くなりましたから、空いている時間で自分の好きなプログラムを作りフリーで公開していきました。バグがまったく居ませんから使用者にはとても好評でした。
 絶絵子さんは時々バイクにまたがり一人で海岸や山の中を走り回ることがあります。ある日のこと六甲山中を突っ走っていた時、突然靴ひもが切れてしまい困ってしまったことがありました。  ちょうどそこへチャリンコで通りかかった男の子が彼女を助けてくれたのです。たちまちのうちに絶絵子さんは彼のことが好きになり、チャンスの女神をその場で組み伏せたのでした。
 絶絵子さんは彼と何度かデートを繰り返すうちに彼のことをいっぱい知るようになりました。好きな食べ物も、好きな言葉も、普通の人には耐えられないような癖も(そういうところも絶絵子さんは好きだったのですが)、口臭も、体臭も、そして彼が今悩んでいることも。彼にはストーカーが一人居て四六時中つきまとわれていたのです。絶絵子さんは呪文を唱えて願いました。「自由になあれー」 ストーカーさんは自由になり離れていきました。
 彼は言いました。「今の仕事はとても大変で夜中どころか休日も無いんだ」 絶絵子さんはまた呪文を唱えて願いました。「自由になあれー」 彼は仕事を失いました。それどころか次の就職先もまったくみつかりません。でも絶絵子さんの収入は充分なほど有りましたし、二人分くらい軽いものでした。
 彼は言いました。「僕は退屈なんだ。日々を送るのがとてもつらい」 絶絵子さんはまたまた呪文を唱えて願いました。「自由になあれー」 彼は絶絵子さんを見ていれば幸せでした。彼女の息を吸い、匂いをかぐだけで幸せだったのです。退屈は自由になりました。
 彼は言いました。「君との、この瞬間が永遠に続いてほしい」 絶絵子さんは悲しく彼を見つめました。「自由になって」彼は消え去りました。絶絵子さんから自由になったのです。幸せな瞬間を永遠のものとするには愛する人から自由でなければいけなかったからです。